エジプト記 vol.04

Reiz2007-07-22


この日は5時30分起き。7時にホテルを出発し、王家の谷へ。
本日の一枚は、そうツタンカーメンのお墓の入り口です。
ちょうど人が立っている(見ず知らずの方です。すみません)所から20段くらいの階段を降りて、突き当たりを右に曲がり下っていきます。
プレートに「TOMB OF TUT ANKH AMUN NO.62」と書いているのが、読めるでしょうか?ナンバーはお墓が発掘された順番で、このお墓の62番目に発掘されたことになります。
ちなみに右上の赤丸で囲っているのは、ラムセスVI世のお墓の入り口です。
ツタンカーメンのお墓は、ラムセスVI世のお墓を作る作業員小屋だったと言われてるところの下にあり、こんな位置関係になります。
まさかファラオの墓の上に、作業員小屋を建てるはずがないだろうと思われていたのと、その頃(1920年代)すでにラムセスVI世のお墓は観光名所のため、観光客をシャットアウトしての作業がなかなか難しかったといったことから、この場所は長い間発掘されずにいたとのこと。
ちなみにツタンカーメンとラムセスVI世の年代差は200年程あるそうです。王の墓は秘密裏につくられるし、そりゃ、覚えていないよね...
ってなことで、お墓の中に入ると、他のファラオのお墓に比べると明らかに小規模なつくり。ラムセスVI世のお墓が3LDKだとすると、ツタンカーメンのお墓は1Kくらいな感じです。
通常ファラオのお墓は生前から長い年月をかけてつくられ、ファラオは自分の目で出来映えを確かめたそうです。
しかし、ツタンカーメンは19歳という若さで没し、お墓の準備が全くできていなかったため、急遽神官アイ(ツタンカーメンの次のファラオ)が自分のために準備していたお墓に埋葬されたのだとか。
なので、もともとファラオのお墓のつもりで作ってないので、小振りなんですね。
といいつつも、埋葬品の量はそれなりで、部屋に所狭しとぎゅうぎゅうに入っていたようです。(これらのほとんどはカイロ考古学博物館にあります。すっごい量ですよ。ベッドは儀式用、生活用含め5台もあるし。)
没してから埋葬するまでの日数は約70日。その間に壁画とか仕上げなければならないため、棺のある玄室から遠い入り口近くの壁は、下書き状態で残されてました。
しかし、王の眠る玄室の天井には、太陽が没してからまた昇るというモチーフの壁画が、今も当時の色あいそのままに美しく残っています。
当時の色が本当にきれいに残ってるんですよ。最初は復元したとばかり思っていたのですが、全く手は入れていないんだとか。赤、青、黄色と、原色で彩られていました。
そして、今もツタンカーメンは王墓内の第1人型棺の中で眠りについています。
他のファラオが博物館に展示されている中、ツタンカーメンだけは...なんか感慨深いものがありました。
んで、こんなに本文長いのに、今日のおまけの一枚です。

これはアメンホテップIII世、そうツタンカーメンのお父さん(祖父?)の葬祭殿の門にあたる神像です。
葬祭殿とは、ファラオの葬儀を行ったり、ミイラをつくった場所だと言われています。
後ろにあったはずの葬祭殿は、後々のファラオ達が自分の建物をつくるために持ち去って行ってしまったそう。
この手も話もたくさんあって、時代が変われば過去の王の遺跡は、即戦力となるカタチの整った使い勝手のいい石の宝庫となります。なんで、柱とか床とか持っていっちゃうんですね。さらに像とかはカルトゥーシュを書き換えて自分にものにするし。
世知辛い世の中だったんですね。
で、このアメンホテップIII世と奥さん(ネフェルティティ)の像は「メムノンの巨像」と呼ばれ、その昔明け方になると泣き声をあげたそう。
地震で入った亀裂に空気が入り込み、温められ外に出る時にしていた音がそう聞こえたんだとか。
亀裂を修復したら、泣かなくなったそうです。

2007.07.22 Reiz